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和算という言葉は、西洋から入ってきた数学に対して、江戸時代日本独自に発展してきた数学のことを明治時代になって和算と呼ぶようになった言葉である。和算が発達したもとになったのは、室町時代末に中国から伝わった数学であった。中国から伝わった数学を日本人が独自に発展させた主なものに次ぎのものがあげられよう。
吉田光由(1595〜1672)は「塵劫記」という数学の書を1627年に著しているが、1641年には上・中・下3巻よりなる「新編塵劫記」下巻の最後に読者に解いてもらう問題を12問を付けて出版した。この解答を解いて更に本の後に筆者の問題をつけて出版するということが繰り返された。このような本を「遺題本」といい、これを遺題継承と呼んでいる。(詳しくは『和算の事典』p.414拙著参照の事)
神社・仏閣に数学の問題を額として奉納した絵馬である。印刷技術がまだ発達していなかった時代で、数学の発表の場を求めて民衆がよく集まる神社・仏閣に数学の問題と解答・術(解答の方法)を書いて額として奉納した。いつ頃から始まったかはっきりしないが、「算法勿憚改(さんぽうふつたんかい)」(1673年村瀬義益著)という本に寛文の頃(1661〜1672)に武州目黒不動堂に掲額されたことが記されている。現存算額では1683年の栃木県星宮神社の算額が一番古いものである。(現存算額は小寺裕先生の「和算の館」
情報が現代の様に発達していなく教育も日本の田舎にまで、届かなかったが全国をまわり数学教えて行脚する人達が現われた。これらの人を遊歴算家と呼んでいる。遊歴算家は数学が好きな人達を村の役員宅、あるいは数学を習う人の所に集め、教授したものである。時には数学道場等に訪れて数学を教えたり、数学の試合をしたり、中には神社・仏閣の算額を見て、日記に残した人もいる。
関孝和を筆頭に和算家と呼ばれる人達がいて沢山の驚くべき業績を残した人がいる。西洋ではピタゴラス、ベルヌイ等と数学者の名前を付けているが、日本では付けていないので西洋のほうが早いように思われがちだが、日本の方が早いものも有る。
☆2024年8月4日及び8月10日数学史学会 和算入門講座のレジメご希望の方はメールでおたずねください
月刊誌「現代思想」令和3年7月号「和算の世界」に和算問題集を掲載してもらいました。